日本の風習とアーユルヴェーダのつながり〜食事編〜
アーユルヴェーダを実践するために、インドやスリランカなどのスパイスやハーブは必須ではないことを知った。
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日本でアーユルヴェーダに興味を持つ人は年々増えている。
自分で勝手に興味の段階をイメージしてみた。
入門編は『ああ、あのオデコにオイル垂らすヤツでしょ?エステ的な。』
基礎編は『ああ、マッサージとかスパイス料理がいいのよね。でも、それだけじゃなくて、生活習慣とかも細かく指示されてるよね。いわゆる、より良く生きる為の智慧よね。あと、ドーシャとかあるよね。』
初級編は『オイルうがいやマッサージやその他諸々の行為の良さは何となく体感している。でも、その体感している良さの、その先の目的って何?』
中級編は、歴史や理論を学び始める。
上級編は、アーユルヴェーダ以外の聖典やインド哲学を学び始める。
全体像を見るようになり、その繋がりを把握していく。
偏りなく、冷静に、氾濫する情報の取捨選択をできるようになり、振り回されなくなる。
更にその上もあるのだろうけど、学びがまだまだ浅い私に想像できるのはここまで。
アーユルヴェーダを学ぶほど、自分の視野がいかに狭まっていたか、盲目的になっていたか気づく。
色んな講座やスクール、本を執筆している人がいるけれど、原点・本質を理解している人は少ないことが何となく見えてきた。
まあ、私も表面的な部分にばかり熱中していた一人・・・
(今、それを先生の力を借りながら少しずつ正しく理解に近づけていっている最中)
色んな情報に振り回されながらも信頼できる先生に巡り会い、今その人のもとで学んでいる。
もちろん、信頼のおける先生も人間だから、多少の偏りや主観は入るかもしれない。
だから、自主的な勉強も同時進行で行っている。
これは、先生を見極める材料にもなり、自分の身を守る術にもなる。
前置きが長くなったが、食事の話に戻ろう。
アーユルヴェーダに関して、視野の狭まりが顕著だったものの一つが、取り入れやすく、普段から興味を持っている『食べ物』。
一例として、年明けに十数キロも買い込んだスパイスや豆の数々がある。
インドやスリランカで食べられているスパイス料理こそが
バーベリンで食べた料理こそが、アーユルヴェーダの食事だと思い込んでいた。
他にも、何千円も出して、ギーを買ってみたり。
脂肪を削り取る効果があるとの情報を聞きかじり、非加熱ハチミツを買い込んで、毎朝毎晩スプーン何杯も舐めてみたり。
まあ、どの食材も身体に良いものだし、カレーもハチミツもギーも純粋に美味しくて好きなので後悔はないけども。
アーユルヴェーダの本質や歴史をすっ飛ばし、表面的な部分のみを削りとったような本やネット情報を鵜呑みにして間違った努力をしていたことに気づいた。
深く学んだり、自分で考えたりすることなしに、ただ本の通りに機械的にやっていたのだ。
そもそもアーユルヴェーダ経典は、インドのもの。
日本の気候や、日本に自生している植物、生活習慣などは一切考慮されていない。
ネットや流行に乗っかったような本などの情報をそのまま鵜呑みにして実践しても、思ったような効果が感じられない可能性が高い。
とすると、どうしたらいいのか?
賢い人は、アーユルヴェーダの本質・理論を理解して、
日本の伝統的な食生活や風習の中に実はアーユルヴェーダの智慧が隠れている事に気付く。
そして無理なく、それを実践する。
色々そろえなくても問題ないのだ。
日本人が得意とする、『日本仕様への変換』の出番だ。
灯台下暗しで、日本の伝統的な風習が持つ素晴らしさになかなか気付かない。
目新しさを求めて、外へばかり目が向いてしまているのだ。
目新しいものにばかり興味をうばわれて右往左往しているのだ。
まあ、わたしもその一人だけど。汗
アーユルヴェーダを学びつつ、今は薄れ行く日本の風習や智慧を見直してみると色々なつながりを発見できる。
日本にも古来からのスパイスはある。
ハーブもある。
アロマだってある。
カタカナの名前だけがついたものばかりが全てではないのだ。
こういうのを掘り下げてみるのもまた、面白いもんです。
実現は少し先になるけれども、知識と実践から生まれた自分自身の経験を織り交ぜた講座をやってみたいと思うようになってきた。
蓄音機のように暗記した知識を話し続ける講座には興味はない。
経済的な部分から切り離した、『本当にやりたいこと、人や社会にとって有益な事』を仕事にしたい。
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